後編【宮崎県立博物館】宮崎、古代からの歴史~神話の源流
さてさて、前回からの続きである宮崎県立博物館で堪能した歴史の宝庫。
旧石器時代からスタート!
- 【旧石器人の狩猟】
- 【歴史 日向のあけぼのに生きる】
- 【狩りに明け暮れる日々】
- 【土器づくりはじまる】
- 【米づくりはじまる】
- 【日向の古墳が語るもの】
- 【日向国(ひゅうがこく)誕生の風景】
- 【マップ・施設案内】
【旧石器人の狩猟】
ようやく広がり始めた照葉樹の森で狩りを行う旧石器時代末期の狩人。細石刃の埋め込まれた最新式の槍を手に、息を殺して獲物を狙っています。
寒冷な気候に適応するために獣の皮をとじ合わせて作られた着衣は、推定復元したものです。背景は、県北部の代表的旧石器遺跡である日之影町出羽洞窟の巨大な岩陰です。
【歴史 日向のあけぼのに生きる】
地質年代の第四紀(約200万年前~現代)は「人類期」といわれ、アフリカに誕生した人類が進化して、世界各地に展開した人類の時代です。最終氷期であるウルム氷期でには、現人類の直接の先祖であるホモ・サピエンス(新人)が誕生し、世界各地に広がりました。日本列島における人類の足跡は、いまでは50万年前にさかのぼろうとしています。
宮崎県においては、AT(姶良・丹沢火山灰)に代表される数枚の年代決定の指標となる火山灰層によって遺物年代の特定が比較的容易で、それらの火山灰層を鍵として、県内最古の石器の年代が現段階で、約5万年前にまでたどれるようになりました。
人々はナイフ型石器・尖頭器などを携えて、定住することなく獲物を追っては移動する生活を送っていました。約1万年2000年前になると最終氷河期が終わりを告げ、動植物相も変化していきました。
やがて土器や弓矢の使用が始まり、縄文時代が幕を明けます。約6000年前になると気候の温暖化が進行し海面の上昇がピークをむかえ、海水の侵入によって複雑な海岸地形が生まれます。
この好条件にもっとも恵まれた南九州では、縄文草創期のごく早い時期から定住化のきざしを見ることができます。しかし、順調に育っていた南九州の縄文草創期・早期文化も、鬼界カルデラの大噴いう予期せぬ自然災害によって後退を余儀なくされました。
いまから約2500年前、日本文化の基底を形成することになる「稲作の開始」という社会経済の大転換は、縄文晩期の早い時期から南九州にもおよびます。稲作伝播のの道筋は、日向灘海岸線から内陸部へ、あるいは九州西北部から直接内陸部へと波状的な複数のルートが想定できそうです。
青銅器祭祀の不採用、鉄器普及の遅延など弥生文化の周辺地域としての位置づけは不確かな点もありますが、弥生文化の形状や変化をみてゆくと、弥生時代の宮崎は九州北部地方はもとより、近畿地方や瀬戸内地方との深いつながりがあったことがわかります。
やがて各地で成長した首長たちは、その権力や地位の証として「古墳」というモニュメントの築造に奔走し始めます。古墳は地域勢力の系統や盛衰、近畿の中央勢力との連合関係を解き明かす鍵を握っています。
宮崎の古墳時代は、九州のなかでもずば抜けて古墳の数が多いこと、前方後円墳の占める比率の高さや地下式横穴墓という地域色の濃い古墳の存在、中央勢力の東九州への勢力浸透と、在地勢力との関り合いなどなお多くの謎を秘めています。
【狩りに明け暮れる日々】
いまから数十万年前から1万2000年前にあたる旧石器時代は、氷河期ともいわれ現代よりもずっと寒冷で乾燥した気候でした。約2万年前の南九州では、現在の東北地方に匹敵するくらいの気温であったといわれています。土層中の花粉分析によると。針葉樹やササ類が生い茂る植生環境で、寒冷な時期が長く続きました。
南九州の人類の生活跡は、こぶし大の焼石がせまい範囲に集まった跡がみつかる程度で、人口の希薄さと生活用具の残りにくさとが相まって、かれらの生活を鮮明に描き出すことは容易ではありません。それでも宮崎の人類の足跡は、川南町後牟田遺跡の火山灰層(霧島イワオコシ)の直上から発掘された石器によって、約5万年前にまでたどることができます。
【ナイフ形石器】
石片の両側縁を、ナイフ状に加工する九州型のナイフ形石器です。柄に付けて槍の先としたり、文字通りナイフとして使用しました。石材は主に加工の容易な流紋岩質溶結凝灰岩、ディサイト質溶結凝灰岩、泥岩ホルンフェルムがもちいられています。良質の石材が入手できない地域では、硬質砂岩なども利用されました。
【剝片尖頭器】
剝片尖頭器は石刃の先端を尖らせ、基部をつまみ状に加工する石器です。これもナイフ形石器と同じように柄に付けて使用したと考えられています。国内では九州全域と中国地方の西部、大陸では朝鮮半島の一部や沿海州で出土します。2万年前ころに出現し、使用の時期が限定される特徴的な石器です。
【皮をなめすエンドスクレーバー】
石器は皮を剝いだり、肉を切るようなナイフ形の石器ばかりではありません。これは厚い石刃の一方の端を急角度に剝いで、分厚い刀部をつくる加工用の石器です。北方諸民族の類例から獣皮の脂肪をかき取ったり、皮をなめす(やわらかくする)ために使用されたと考えられています。押引法やひっかくなどような使用法が推定されます。
【土器づくりはじまる】
土器と弓矢の使用を特徴とする縄文時代は、南九州から始まりました。鹿児島県国分市上野原遺跡に代表される南九州の草創期・早期の縄文文化は、緑豊かな照葉樹林を背景に東日本に先駆けていたことが明らかになりつつあります。県内でも、山地や丘陵の平坦面には、高密度に早期の遺跡が分布しています。土器の形状をみると、壷形あり、角筒形ありとおおらかで創造性にあふれています。
しかし、縄文早期3000年にわたって営まれていた南九州縄文文化は、いまから6500年前の鬼界カルデラ大噴火によって引き起こされたアカホヤ火山灰の大規模な降灰によって終わりを告げました。南九州の縄文人は、植生が回復し生業が開始できるまで、長期的な避難をよぎなくされたと考えられています。
【縄文のバーベキュー~集石遺構~】
集石遺構は大地の縁辺部や丘陵の突端部で発掘されることの多い焼石が円形に集められた縄文時代早期の遺構です。南九州の縄文時代のもっともポピュラーな遺構で、炉または石蒸料理の跡などの諸説があります。焼石に残っているタール状のものを脂肪酸分析にかけたところ、シカやイノシシ、鳥類、魚類などが調理されたらしいことがわかっています。
【縄文早期土器群】
縄文時代、初出現の壷形土器や奇抜なデザインの角筒形の土器など、南九州の早期縄文文化の独自性と多様性を感じさせる個性豊かな土器群です。角筒形の土器は器壁も薄く、硬く焼しめられ、高い土器焼成技術で焼かれたことがわかります。いずれば深鉢形で、どんぐり類の灰汁抜きのような用途にもちいられたと考えられています。
【土偶と石棒】
胸や腹のふくらみを強調した妊婦像である土偶と、男性器をかたどった石棒は、動植物の再生を祈る「まつり」に使用された非日常の道具です。土偶はまつりに際して破壊されることが多く、この土偶でも頭を欠いたあと周囲を石で囲んだ状態で発見されています。(高千穂町陣内遺跡出土)
【米づくりはじまる】
弥生時代を特徴づける稲作の波及は、従来、宮崎市檍(あおき)遺跡などラグーンの発達した宮崎平野などの海岸線から始まり、徐々に内陸へ浸透していったものと考えられていました。しかし近年、海岸部から遠く離れた県政南部地方の遺跡から縄文時代の晩期ころと推定される稲のプラントオパールが検出され、稲作伝播のルートが一系統ではなく、地域的、時期的に多様であることがわかってきました。
出土する弥生土器をみても宮崎の弥生時代には、九州はもとより、近畿地方や瀬戸内地方からも絶えず人の流れがあったことがわかります。外来の諸文化の受けながらも、弥生後期初頭に宮崎平野部に出現する「花びら形住居」のように独自の要素も育みました。
【日向弥生人の独創~花びら形住居~】
竪穴式住居の平面刑は、弥生時代から古墳時代にかけて円形から方形に推移していきますが、この流れのなかに弥生時代後期初頭に花びら状を呈する住居がこつぜんと出現します。
花びらのくびれた部分は低い土壁となって仕切りのような機能をはたしていたと推定され、仕切られた空間は小部屋のようになっています。したがってこれを間仕切住居とよぶこともあります。この小部屋は、作業場、祭祀の場、ときにはベッドとして使用されたと考えられています。
【花びら形住居遺構】
【弥生時代のむら】
【磨製石剣と石剣復元模型】
磨製の石剣は、青銅製の剣を模したもので祭祀に関連する石器と考えられますが、福岡県穂波町スダレ遺跡出土の人の腰骨に刺さった例などをみると、実戦(戦闘)にも使われていたようです。県内でも折れた切先の出土例がみられることから、鉄器の普及が遅い南九州でも戦闘に使用された可能性があります。(宮崎市大淀川河床出土)
【石製穂摘具(石庖丁)】
コメ・アワ・ヒエなどの穀物の穂摘み具である石庖丁は、弥生時代の代表的な石器です。刃のつきかたなどに地方色があり、紐をとおす孔のかわりに、両端に切れ込みのある方刑タイプは、南九州独特のものです。栽培された穀物の種類は、植物の細胞中に含まれる特有の形をもった珪酸体(プラントオパール)を土壌中から検出し、顕微鏡で観察することによって特定できるようになりました。(佐土原町下那珂出土)
【日向弥生人の土器~中溝式土器~】
佐土原町中溝遺跡から出土したことから名付けられた中溝式土器は、北九州や東九州地方の土器文化の影響下に生み出された宮崎独特の形状をもつ弥生時代の甕形土器です。こう縁は外側に「く」の字に折れ、その下に断面が三角形で刻み目のついた器が一本はりつけられます。甕は胴部の下半にすすが付着していることが多く、現代の鍋にあたる煮炊きにもちいられた日常の器です。(宮崎市堂地東遺跡出土)
【日向の古墳が語るもの】
三世紀の中ごろから約350年間、日本列島は北は青森県から南は鹿児島まで「古墳」と呼ばれる各種の墳墓で埋め尽くされます。大和の大王から地方の中小首長にいたるまで、古墳の築造ラッシュといえる時代でした。
なかでも宮崎県は各水系ごとに大きな古墳群を有し、いまなおよく保存されています。地上に土盛をもつ高塚古墳(前方後円墳・円墳・方墳など)や、南九州独特の墓制である地下に埋葬施設をもつ地下式横穴墓、丘陵の斜面に掘られた横穴古墳を合わせると、約4000墓以上にものぼります。
特に、九州各地方のなかでも前方後円墳の占める割合が高いこと、前期の大型古墳の多いことなどをみると、早くから畿内の中央勢力と深く結びつきがあったことがわかります。
【古墳時代に副葬されたもの】
【子持家形埴輪】
家形埴輪は、形象埴輪出現の当初からつくられた埴輪です。死者の黄泉の国での住まいであるとか、生前の住まいを表現したものとか諸説あります。入母屋造の母屋の前後左右に小型の付属棟のついた子持家形埴輪は全国でもほかに類例がない唯一の出土例です。(西都原古墳169号出土)
【船形埴輪】
喫水線から下の船底はくり抜き式の丸木舟、舷側には櫂をそえる六対の艪べそ(ぴぽっと)がみられるゴンドラ形の大型外洋船を表現しています。古代において、船を利用した海上輸送は現代以上に重要な交通手段であったにちがいありません。また、埴輪の船は被葬者の魂の乗りものとしてつくられたという考え方もあります。(西都原古墳196号出土)
【国宝金銅馬具類】
西都原古墳のある台地から南西へ谷ひとつ隔てた通称百塚原古墳群から出土した金銅製の馬具です。鞍橋金具前輪・鞍橋金具後輪・かこ・辻金具・うず・きょうようなど馬具の主要な構成品がそろって残る金銅製馬具の逸品です。
鞍金具の海・磯の部分には、精緻な竜の透かし彫りが施され、朝鮮半島製馬具の秀逸さをうかがわせています。(西都原古墳群出土)
【地下式横上の原墓】
地下式横穴墓は、一ツ瀬川流域を分布のほぼ北限とする南九州地方独特の墳墓です。平入型の地下横穴墓は、追葬による複数埋葬の事例が多く、模型では追葬のようすを再現しています。死後の住まいをなる玄室内は家形につくられ、遺体は魔よけの意味をこめて、頭骨を朱(ペンガラ)で赤く染められています。
【竪櫛が残る頭骨】
女性の頭骨上には大きな竪櫛(髪飾り)が、男性には竪櫛が数点残っていました。埋葬に際して、被葬者の髪が美しく結われていたことをうかがわせます。竪櫛の表面に塗られていた漆の皮膜がかろうじて残り、素材であるタケの実態はすでにありません。埴輪にみられる竪櫛の装着法を実際に証明する好例です。(須木村上ノ春地下式横穴墓第9号出土)
【地下式横穴墓に副葬された鉄器】
地下式横穴墓の副葬品でもっとも多いのが鉄鏃、直刀、鉄剣などの武器類です。ついで、U字形鍬先、ヤリガンナといった鉄製農具や工具が副葬されています。木製の鞘や皮製品などの有機物は朽ち果ててほとんど残りませんが、ときとして鉄錆に護られて残る例もみられます。(須木村上ノ原地下式横穴墓9号出土)
【短甲と冑】
古墳時代の短甲や甲は、三角形や帯状の薄い鉄板を鉄の鋲で留めたり、皮ひもで綴じて黒漆で仕上げられています。宮崎県出土の短甲類は、遺体を入れる玄室が空間となる地下式横穴墓が多いため、特に遺存状態のよいことで知られています。(えびの市島之内地下式横穴墓・国富町六野原地下式横穴墓8号出土)
【日向国(ひゅうがこく)誕生の風景】
日向国が国として誕生したことを知ることができるのは、『続日本紀』の698年(文武天皇二)9月28日の条で、常陸国、備前国、伊与国の三国とともにはじめてみられます。
このころまでは、薩摩国も大隅国も日向国に含まれていましたが、709年(和銅二)に薩摩国が、713年(和銅六)には大隅国が独立していますから、このこと宮崎県の基ができあがったといっていいでしょう。日向の国府(政庁)は、現在の西都市三宅にあったといわれ、この地域には日向国国分寺跡もみつことができます。
【隼人の盾】
奈良時代、朝廷は南九州に居住した人々を指して「隼人族」とよんでいたようです。かれらはたびたび朝廷に背反したようで、隼人族が反乱を起こしたという記述が『続日本紀』でみることができます。しかし、後期になると降伏し、朝廷で隼人の舞などを演じていますが、さらに朝廷は、約5万人を畿内から南九州に移住させ、同化政策をすすめたとされています。
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さて、2回に渡って紹介しました【宮崎県立博物館】。全部紹介するのにはあまりにも資料が莫大すぎます。
なかなか宮崎に行く機会はないかもしれませんが、ここでは紹介できなかった名所が宮崎にはたくさんあります。
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